01 - 七月五日/星の見えない夜に



 七月五日の夜。もうあと一時間としないで時刻は午前零時を過ぎる。
 少し小高い丘に作られたこの住宅街は、今や静かな眠りを迎えていた。家々の明かりは殆ど消え、所々にある街頭がぼうと儚い光を放つのみとなっている。
 しかし、その丘の向こう側。駅やコンビニ、百貨店などが数多くある向こう側は、もうすぐ日にちが変わるというのに未だその動きは健在だった。
 向こうの光がこの丘の住宅街まで届き、実に鬱陶しい。
 そんな住宅街のとある屋根の上に、シートも敷かず座り込んでいる一人の少年がいた。
 寝巻きなのか、黒いTシャツに黒いズボンという格好をしている。
 その少年はサンダルを履き、片膝を立てて上を仰ぎ見ていた。
 時々短すぎるでもなく、かといって長すぎるでもない髪を乱暴に掻き毟り、また何かを探すように夜空を見上げる。
 ――うぜぇ。
 声に出さず、憎々しげにそう思う。段々と苛々は募り、思わず星の見えない人口の光を僅かに帯びた夜空を睨みつけた。しかし、目的のものは見えては来ない。あるはずなのにまったく見えないという事実がなんとももどかしく、同時に腹も立たってきた。
 寒くもなく暑くもない今日の夜は実に快適で、時々吹く夜風がなんとも気持ちいい。風に乗って虫たちの合唱がふんわりと聞こえ、なんともいえない清々しさを感じる。
 だが心は晴れない。寧ろ、時間の経過とともに曇っている来ている気さえする。

「ちくしょう」

 そう呟くように言うと、その少年は何も見えない明るい夜空から視線を外し、俯いてしまった。

 彼の名は神木亮介(かみきりょうすけ)。歳は十五の高校一年生。彼は今日家族とともにこの町へと彼の父親の都合で引っ越してきたばかりだ。
 亮介たち家族が引っ越してきたこの町は、日本でも有数の大都市に数えられる。交通、設備、生活必需品などなど。前まで亮介たちが住んでいた地域とは桁違いで、それこそ欲しいと思った物は何でも手に入る、と言っても過言ではないほどに整備されていた。
 未だ亮介は俯いていた。
 眉間に深いシワが刻まれている。それだけで、今の彼の心情を伝えるには十分だろう。
 ――気に入らない。
 この町に来てまだ一日も経ってはいなかったが、それでもこれだけははっきりと言える。
 そっと顔を上げ、再び夜空を仰ぎ見る。そこには変わらない空があった。
 ――星の見えない白い夜空。
 腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてくる。別に親の都合とはいえ、引っ越しすること自体に文句はなかった。今まで通っていた高校に別れを告げ、編入試験を受けたのは少々恨めしいが、それも大した問題ではない。
 だが、この場所には我慢ならない。
 都会ゆえかこの辺りには無数の人口の光が溢れていた。そして、溢れ出した余分な光が向かう先は一つしかない。
 ――それはこの夜空。
 本当に信じられなかった。
 ――ここは違う。
 直感的にそう感じた。
 確かに引っ越して来たばかりだからだと言われれば、その通りだ、と答えるしかない。
 ――だが、ここは違う。
 じっ、と白い夜空を見つめる。
 まるで張りぼてじゃないか。ここの空には優しさがない。本来、自分たちを優しく包み込んでくれるはずの夜空は、ここではただ心を覆い潰すものでしかない。魂に自由という軽い羽をくれる夜空ではなく、ただの自由な羽を閉じ込める鳥かごでしかない。
 俺のいたところの夜空はこんな張りぼてみたいな空じゃなかった。
 今でも目を閉じれば鮮明に思い出せる。
 広大な深い青色をした海の中に浮かぶ、無数のダイヤモンドたち。俺というちっぽけな存在を、それでも残らず包み込み、温もりをくれていた無限のシルエット。
 季節ごとにまったく違う光の輝き、表情を持っていた。そのどれもが限らなく美しく、それこそ地球の宝と呼ぶに相応しい。
 ちょうどこの季節には、無数の星を敷き詰め生まれた天の川が夜空いっぱいに横たわるはずだろう。去年までは、デネブ、ベガ、アルタイルを結んだ夏の大三角を眺める自分がいた。
 どれもこれも、あの場所から遠く離れたここでさえ、瞳を閉じれば瞼の裏にありありと煌(きら)めいている星々が蘇ってくる。
 しかも、この街の悲惨さを知った後だ。余計に煌めき、何より懐かしく感じてしまう。
 あんな夜空は今後しばらく見れない。
 そう思うとなんだか悲しくて悔しくて、亮介は夜空から視線を外した。


   ◇


「さて、もう寝るとするか」

 それからしばらくして独り言をぽつりと零し、よいしょ、というかけ声とともに一気に立ち上がる。そして、一度ズボンについたホコリを払うために軽く叩いた。
 長時間座って凝り固まった筋肉をほぐそうと亮也は大きく夜空に向かって伸びをした。
 その時だった。

「ぃゃぁぁあああ!!」
「あ?」

 突然、夜空に輝く一筋の煌めきが見えたかと思うと、なにやら悲鳴じみた甲高い声とともに、猛然としたスピードで一筋の光の矢が亮介のもとへと真っ直ぐに飛んできた。

「誰か止めてくださーーい!!」
「はあっ!?」

 目の端に、今悲鳴を上げつつ亮介のもとへ迫ってきている光の矢とは別の、もう一筋の光線が移ってきた。その光線も、初めの光の矢に負けず劣らずのスピードで最初に空から降ってきた光の矢へと迫ったが、最初の光の矢が更にその速度を速めて落ちてきたため、健闘も空しく亮介のもとへと一線に伸びてきた。
 と、その物体が亮介に衝突する寸前、包み込むように光の集合体が亮介の視界を覆う。

「ぐほっ!」

 そして着弾。
 あまりの衝撃に屋根は揺れ、たまらず亮介は情けない声を出し、謎の物体に押しつぶされて仰向けに倒れてしまった。

「ぐおっ!!」

 腹がとてつもなく痛い。
 ちくしょう。一体空から何が降ってきたってんだよ。
 亮介は痛む腹をなんとか気合いで抑え込む。そして、先ほど空から降ってきた物体を見た。
 ――女の子だ。
 思わず言葉を忘れ見惚れてしまった。
 歳はおそらく亮介と同年代。くりくりっとした宝石のような大きな目に、ほんのり桜色に色づいている頬。形のいい鼻に、可愛らしい唇。そして、細くスラッとした綺麗な眉。顔の各パーツがどれもこの世のものに思えないほど美しく、顔の造作には一切のズレや歪みといったものは感じられない。そして、絹のような黒い髪をこれまで一度も見たことのない形に結い上げていた。その姿はまるで、どこかの姫君のそれに似ているようで、気品さえ漂ってくるようだ。亮介の胸に置かれている両腕は可憐で白く、すべすべとしているようで思わず触ってみたいという衝動に駆られる。
 亮介はあまりの美しさに無意識にその女の子をしげしげと見つめていた。
 白くほのかに輝く美しい羽衣を纏い、まるで彼女自身が光の結晶のよう。
 その姿はさながら空から舞い降りた純白の天使。白銀の可憐な妖精。楽園に住まう天女。

「いたたた……」

 亮介が一人で納得していると、その夜空から舞い降りたその少女が亮介の上で体を起こした。
 ほんの一言。それも、痛い、という負の言葉だと言うのに、彼女から発せられた声にそれはあっさりと正に方向転換したような錯覚に陥ってしまった。
 彼女の声を聞けばきっと、道行く人々がその足を止めるに違いない。

「あっ!」

 二人の視線が互いにぶつかる。
 上にいる彼女が体を起こし、下を見下ろしたらそれは当然だった。
 やっべぇ。
 その時、亮介は自分が無意識の内に彼女を凝視していたことに気が付いた。
 今まで見えていなかった彼女の全貌は、夜空をバックに輝く星のよう。
 彼女の首にかけられている小さな首飾りが揺れる。

「リョ〜オ?」

 そんな時だった。
 不意に家の方から、妙に間延びした母親の声が聞こえてきた。
 同時に今の自分の状況を確認する。
 さあ、と血の気が失せてくるのが分かった。同時に嫌な汗が体中から噴出すのも感じる。
 こんな状況を母さんに見られたら、絶対遊ばれる!
 早くこの状況を何とかせねば!
 変な緊張で固まってしまった筋肉を動かし、亮介は自身の右手を動かし彼女の左手首を自分が起き上がったときに後ろに倒れないように掴む。

「ほへっ!?」

 亮介が彼女の手首を掴んだ瞬間、彼女はなんとも言えない声を上げた。
 それは当たり前の対応に違いない。なにせ見ず知らずの男に急に手首を掴まれたのだ。このような反応をして当然だろう。
 亮介にもそれは分かっていた。彼自身、普段だったら絶対にしない。
 だが、今はそんなことを言っている暇はない。
 普通なら体の上から退いて貰ったあとに自分が起き上がるべきなのだが、今は緊急事態だ。
 あらぬ誤解を生まないため、亮介は急いでその身を起こした。

「わわっ!」

 そんな亮介の行動を予期していなかったのか、彼女は驚きで体を後ろに大きく仰(の)け反ってしまった。

「っと、あぶねぇ!」

 彼女の手首を掴んでいて正解だった。亮介は体を起こした直後、急いで屋根から転げ落ちそうになっている彼女の背中に残った腕をまわし、落っこちないように腰をしっかりと抑え引き上げた。
 しかし、運命とは実に悪戯だ。
 亮介が体を起こした時に、落ちそうになっていた彼女の左手首と腰を抑えて引き上げ、その反動で互いの顔が目と鼻先になってた瞬間――

「上でさっきすごい音がしたけど、どうかしたの」

 ベランダから屋根の上に上がるためにわざわざ設置した梯子(はしご)を登り、亮介の母親がひょっこり顔を出した。

「……」
「……」

 母親と目がばっちりと合い、亮介の思考は停止した。
 今この瞬間だけ、世界が止まってしまったかのような錯覚を受ける。
 一瞬きょとんとしていた彼の母親は、亮介とその夜空から舞い降りた少女を代わる代わる見た。
 だあー、と嫌な汗が滝のように流れ出し亮介の服を濡らす。
 まっ、まずい。

「みーちゃった」

 口の端を不敵に釣り上げると、亮介の母親は新しいオモチャが手に入った子供のような目で亮介を見やってきた。
 ――終わった。
 これから起こることを思って、一人亮介はうな垂れた。


   ◇


 ここは亮介の新しい家のリビング。今日が引越し初日ということもあり、部屋中を大小と様々な大きさのダンボールが所狭しとうず高く積まれている。当然、部屋はぐちゃぐちゃで整理なんて出来ていない。あちらこちらにのっぺらぼうの壁や床が露出し、生活観や個性が感じられない今の部屋はとても空しい。
 そんな中、リビングのよく目立つ位置に置かれた木製のどっしりとしたダイニングテーブルを挟み、亮介たち三人は前に亮介の母親が座り、その向かいに亮介と例の彼女がおろおろと座っていた。
 机の周りは家具や小物らしきものは見られないが、それでも既にすっきりと片付けられている。やはり、母さんの仕事は速いと感じずにはいられない。ちなみに亮介たちの父親は家に帰れないほど忙しいく滅多に家にはいない。

「それでそれで! リョウとこの子との関係は?」

 亮介の母親が楽しそうに亮介に話しかける。
 それに亮介はさもだるそうに返す。

「別に。なんもねぇよ」
「まあまた?。私に黙って、屋根の上で抱き合ってたくせに!」
「ち、違う! あれは事故だ!!」
「やだ、この子ったら、誤魔化そうとしちゃって。このこの♪」

 亮介の必死の弁解も亮介の母親にはまったく聞こえていないようだ。彼女は鼻歌交じりに右の肘で亮也をこずく動作をし、同時に同じくらい弾んだ調子で話を続けた。

「引っ越したばっかりだというのに、リョウもやるわね。この、暴れん坊将軍さん♪」
「誰が暴れん坊将軍だ! て言うか、あれは事故以外の何もんでもない!!」

 亮介は、大声を出しながら必死に弁解を試みる。
 しかし、彼女の話しは止まらない。

「誤魔化さなぁ?い、の!」
「してねぇよ!!」

 思わず怒鳴り返した。この会話に終わりがまったく見えない。一体何度これを繰り返すつもりなのやら。
 もう、やだ。
 いい加減に勘弁してくれと言わざるを得ない。
 しかし、亮介が言い返したところであまり効果がなかったのは明白だった。
 あ?、もう本当にヤだ。

「あの?」

 亮介の隣からいかにもおずおずと言った感じの声が聞こえてきた。その声につられるように亮介たちが、そこに座る彼女を見る。

「あの、え?と……」

 すると、彼女は顔を真っ赤に染めて少し俯いてしまった。顔を赤くし、若干上目遣いで視線をさまよわせている姿を見ると、どうしても視線を外せなくなってしまう。

「あうぅ」

 彼女は二人の視線を受け、ついに耳まで真っ赤に染めてしまった。そんな姿を見て亮介は思った。
 やっぱりかわいい、と。

「そういえば、自己紹介がまだだったわね」

 そんな彼女を見て、ちょうど彼女の向かいに座っていた亮介たちの母親が苦笑気味に助け舟を出す。

「私の名前は神木千里(かみきちさと)。ここに居るリョウの母です。ちなみに私のモットーは『日々おもしろおかしくバカ騒ぎ! 人の迷惑とか知るかコノヤロー☆』です!」

 まずは亮介の母親である千里が自己紹介を始める。終始柔和な笑顔を浮かべるその姿は、まさに母親のそれであるが、言っている内容は明らかに間違っているだろう。
 モットーが『日々おもしろおかしくバカ騒ぎ! 人の迷惑とか知るかコノヤロー☆』なんて、可笑しいにも程がある。
 千里が自身の自己紹介の後、亮介ににやりとした笑顔を向ける。

「はい、色男さまの番よ」
「だれがだよ」

 実に楽しそうに話す千里とは対象に、亮介は疲れたように言い返した。
 勝手にしてくれ。
 亮介は自身の心情を隠すことなく、また盛大にため息をついた。
 隣にいる彼女を見る。彼女は上目遣いでおずおずと亮介を見ていた。その目は今にも捨てられそうな子犬を想像させると同時に、ひどく可愛らしく、見ていたこっちが恥ずかしくなってきた。さらにはさっきの屋根の上の出来事も脳裏に蘇り、気恥ずかしさが倍増する。

「神木、亮介だ……」

 耐えきれず亮介は彼女から目をそらした。心臓が早鐘のように鳴り響き、顔も熱い。
 そんな我が子をニヤニヤと見ていた千里は、亮介の自己紹介の後、亮介の隣に座る彼女に声をかけた。

「ごめんなさいね。家のバカ息子は肝心なとこでヘタレでね」

 うるさい、と言いそうになったがあながち間違いではないので、反論する代わりにそっぽを向いた。

「そ、そんなことないです! それに――」

 そこで彼女は一度口を噤んでおろおろと視線を亮介に向ける。
 本人はフォローしたつもりだろうが、その一言は亮介に止めを刺したと言っても過言ではない。
 自身を情けなく思いながらも亮介は、途切れた声に釣られて彼女を見た。
 一瞬。また二人は視線を合わせると、また二人して視線を落としてしまった。どうにも視線を合わせるだけで気恥ずかしい。それに先ほどのことがフラッシュバックして敵わない。
 そんな亮介たちを見た千里が言った「おやおや」という声にももちろん無視。頼むから触れないでくれ、というのが本心である。

「――それに、わたしはこの方に命を救われたんです」

 彼女は顔を赤くさせながらも前にいる千里にそうはっきりと告げた。
 しかし、彼女は勘違いしている。命の恩人とはあまりに大袈裟だ。寧ろ勘違いだと言って間違いないだろう。何故なら彼女が落ちてきた真下にたまたま自分がいた、というだけの話なのだから。
 何故だかやるせない。

「このヘタレがねぇ?」

 そう言って流し目で千里は亮介を見ると、さっさと話題を変えて彼女に尋ねた。

「それで、あなたのお名前はなんと言うの?」

 いかにも興味津々といった声色で千里が口を開く。そう言えばまだ彼女の名前すら知らなかったことに今更ながら気がついた。

「は、はい!」

 不意にガタンという音を立て、彼女は慌てて椅子から立ち上がった。そして、急いで頭をペコリと呆然と座っている一同に下げる。

「申し送れました。わたくしの名は織姫(おりひめ)と申します。星界(せいかい)から参りました」

 そしてまた呆然。彼女の名前は織姫だということはわかったが、後半がなんともおかしい。『星界』なんて単語は初めて聞いた。

「あ、あの!」

 ぺこりと勢いよく下げていた体を、それに負けないくらいの勢いで起こすと彼女は懇願たる表情で口を開いた。

「わたしを助けてください!」


   ◇


「しかしあれだな。人探しの手伝いをして欲しいなら最初からそう言えばいいのに。助けてください、なんて言うからてっきり誰かに命を狙われているのかと思ったぞ」
「ご、ごめんなさい。なにぶん焦っていたもので」

 まあ別にいいけどよ、と亮介は申し訳ない顔をしている織姫に苦笑気味に返した。

 場所は変わって亮介と織姫の二人は、二階にある亮介の個室となる部屋にいた。もちろんこれは亮介にとっても予想外。
 亮介は織姫に悟られないようにそっとため息を漏らす。一体、たった一晩で何度ため息をついたのか。思い出すのも億劫で仕方ない。
 とりあえずダンボールの中から引っ張り出した座布団を敷き、二人は向かい合わせになるように腰を下ろしていた。
 ちらっ、と周りを見わたすとそこかしこに封を切られていないダンボールの数々が見える。こうなるんだったら、もう少しちゃんとしておくんだったと、今更ながら後悔した。
 次に亮介は、先ほどの千里によって湯飲みに用意された緑茶を慣れた手つきで飲んでいる織姫を見る。
 白を強調して作られた彼女の服は、平安時代の貴族のそれによく似ている気がする。しかし決定的に違うと思われるのは織姫の着ている服が目で見てわかるほど軽そうだという事。まるで、服と服の隙間に空気が入り込みんでいるようだ。また、小さいがそれでいて高貴な光を発している丸い球体のついた首飾りをしていた。その球体の色は夜空のようなダークブルー。
 体の周りにはふわふわとどういった原理でかは知らないが、光の集まりで出来たような羽衣を纏っていた。その羽衣が先ほどから風もないのに、さらさらとそよ風にでも撫でられたかのように動いている。
 そんな異色ともとれる服装は、しかし彼女にこれ以上にないくらい似合っていた。
 ふと、どうしてこんな事になったのかと、先ほどの会話を思い出そうとして、やめた。
 そんな事をしてもまったくもって仕方がない。
 それに先ほどの会話でいいように千里に遊ばれている自分を思い出しても、ただただ惨めに思うだけだ。
 だが、これだけは言っておく。
 こうなった原因は、すべてあの自分に被害がない程度に出来事を面白い方へと転がそうとする、千里のせいである。
 お陰で、今日から下のソファーで寝なくてはならなくなった。
 まあ、正確なところは他に彼女に泊まってもらえるとこらがなかった、というだけなのだが。
 本当に彼女には申し訳ない。
 くい、と自分の湯飲みを飲み干すと、亮介は先ほど織姫から聞いた話を思い出した。

「しかし星界か。未だに信じられないな」
「まあ、こちらの方々には理解しがたい内容だというのは承知してはいるのですけど」

 織姫は申し訳なさそうにそう言い返してきた。
 亮介は今一度、先ほど織姫が話してくれた内容を思い出す。
 織姫曰く、この世には数多くの様々な“世界”が存在しているらしい。彼女が来たという『星界』も、そういった数ある世界の一つなんだとか。またその星界とこっちの世界は古くから密かに交流があったとのこと。
 にわかに信じられないが、思い当たる節もなくはない。
 かの有名な『かぐや姫』は、そんな星界とこちらの世界との交流が書かれたものだったのかもしれない。
 ふと素朴な疑問が湧いてきたために、亮介は織姫に尋ねてみることにした。

「そういえば、一体どうやってその星界からこっちに来たんだ?」
「それは『星の回廊』と呼ばれるものを通ってきたからです。『星の回廊』というのは、定期的にこちらの世界と星界とを繋いでいるものなんです」

 それにこの世界のいたるところと繋がっているんですよ、と織姫は付け加えた。
 それに亮介は、なるほど、と頷いた。

「じゃ、俺も頑張れば行けるのかな。その星界とやらに」
「あっ、それは無理だと思います」

 なんとなく呟いた声は、あっという間にくじかれてしまった。

「おいおい。そんなにきっぱりと言わなくてもいいだろうに」
「ご、ごめんなさい」

 若干落胆しながら亮介が言うと、また織姫は申し訳なさそうに自身の周りに浮かんでいる羽衣を手にとった。

「わたしたちがこちらの世界に来るためには、どうしてもこの羽衣が必要なんです」

 そう言って織姫はその羽衣を亮也に見せる。
 なるほど。なんとなく納得。

「そっか。確かにその羽衣にはそんな力がありそうだ」

 第一、もう常識なんて皆無だろう。宙に浮かんでるし、なんか動いてるし。
 本当にその羽衣は煌びやかでド素人の亮介でさえ、ため息が出そうになるくらいに美しい。

「えへへ。ありがとうございます。これはわたしの宝物です。それにこの羽衣に限った話ではないですが、羽衣には『星の回廊』を通る力があるだけじゃなくて、空も飛ぶ事が出来るんですよ!」

 亮介に褒めて貰えたのが嬉しかったのか、織姫は可愛らしく胸を張った。
 しかし、亮介は彼女の最後の言葉が引っかかった。

「あれ? 空も飛べるのにどうして落っこちたんだ?」

 実に素朴な質問。しかし、ある意味的を射すぎている質問。
 亮介がそう織姫に尋ねると、織姫は得意げな顔を一変させ、俯き亮介を見上げた。

「そ、それはですね……実はこっちに来たのは良かったのですが、突然の突風に驚いてしまって、それで――」

 羽衣を落として地上に真っ逆さま、という意味なのだろうか。織姫は耳まで赤くさせ、上目遣いで亮介の顔を窺っていた。

「そ、そうか。まあ、たまにはそう言うこともあるって」

 そこまで言って、亮介の脳裏にまた別の疑問が湧いてきた。

「ん? それだとどうして今はあるんだ?」
「それはたぶん、ベガさんが拾ってくれたからだと思います」
「べがさん?」

 急な人物のため思わず聞き返した。彼女の口調だと、どうやらその『べがさん』が失くしかけた彼女の羽衣を持ってくれたらしい。
 しかし、どんなに彼女との出会いを思い出しても、亮介のほかに人物はいなかった気がする。

「はい! 正確には『ベガのハゲワシ』というのですけど……そうだ! 折角だからベガさんに来て貰いましょう」

 そう言うと、目を白黒させている亮介を無視し、勝手に話を進め始めた。
 織姫は一度、目を軽く瞑り、呼吸を整え始めた。
 と、なにやら彼女の首飾りに不思議な光が灯る。

「――ベガさん」
「……御意」

 織姫は小さく呟く。すると、亮介と織姫しかいなかった空間に、とても厳(あごそ)かな第三者の声が響いた。
 突然の第三者の声に驚き、亮也は辺りを見回す。しかし、その声の主は見つからない。

「ん?」

 その時、亮介たちの頭上で黒い影が揺らめいた。
 驚いて、亮介はすぐさま頭上を見上げる。
 すると――いた。
 一羽の巨大なハゲワシが、こちらをギラギラとした獰猛そうな黄金色に輝く目で射抜いていた。
 思わず硬直。声も出ない。まさかこんなのが出てくるとは。
 そんな亮介からそのハゲワシは微動だとも視線を外すことなく、織姫の横へと降り立った。
 こんなにも巨大な鳥の羽ばたきであるにも関わらず、ほとんど羽ばたく音がしなかったのは不思議で仕方ない。

「申し送れましたが、こちらが――」
「姫様のお供をさせていただいている、『ベガのハゲワシ』と申します」

 厳かにそれでいて厳粛にベガは口を開いた。
 もう亮介の目は点であり、開いた口が塞がらない。

「先ほどは姫様をその身を犠牲にしてまで助けていただき、大変かたじけなく存じます」

 くい、とベガは頭を下げた。

「もう少しわたくしめが速く、姫様に羽衣をかけておけばこのようなならなかったというのに。ご迷惑をお掛けした」

 実に紳士的な鳥だと思わずにはいられない。その口調はまるでどこぞの大貴族の執事のようだ。
 しかしこれでわかった。彼女が何故、落としていたはずの羽衣を纏っているのか。あの織姫と亮也がぶつかる寸前に見えた光は、きっとベガが織姫にあの羽衣を被せたからなのだろう。

「して姫様。明日からの夏彦(なつひこ)様の捜索。いかがなさるお積もりで?」
「えーと……」

 不意にベガは頭を持ち上げると、織姫の方へその黄金の瞳を向け尋ねた。

「実はそのこともあって、ベガさんに来て頂いたのです」
「御意。我が姫の仰せとあらば」

 そう織姫が申し訳なさそうに言うと、ベガは亮介のときより深く頭を下げた。

「あの、すみません。その夏彦さんという方を探しにこっちに来たんですよね?」

 今まで固まっていた亮介が、ようやくその口が利けるようになり、おっかなびっくりと話し出す。動物だとか思うが、その雰囲気たるや普通ではない。自然、あまり敬語を話さない亮介でさえ、ベガ相手には敬語になってしまった。
 亮介の横槍に動じることなくベガは丁重に答える。

「左様。あのお方は姫様の――大切なお方なのです。そう、とてもとても大切な」
「そ、そうですか……。あの、その方はどうしてこちらの世界に?」
「亮介殿」

 今までより少し強い口調でベガは亮介の名を呼んだ。
 その迫力たるや尋常ではない。思わず彼が動物だということを忘れそうになる。
 当然のようにびびる亮介。その脳には、情けない、という言葉さえ浮かばない。

「人には知られたくない秘密というものが御座います。特にお相手がお若い姫君なら尚更の事。このような事は知っていて当たり前ですぞ」
「す、すみません。聞いた俺がバカでした!」

 がばっ、と亮介は思わず頭を下げた。
 かなり怖い、というか恐ろしい。
 もう、絶対にこの方を怒らせることは言うまいと固く亮介は誓った。

「それでは、明日。夏彦様を探す手伝いをして頂けぬだろうか?」
「もちろん! 喜んで探させていただきます!」
「お願い致す」

 もうどうにでもなれ、と半場やけになりながら亮介はそう約束した。
 そんな亮介を見て、実に満足そうにベガは頷いたのだった。


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