茜色の両翼
夕暮れに染まる公園。細く長く伸びきった影は地面に刻まれた烙印のように見える。辺りは熱くもなく寒くもなく涼しげで、ずいぶんと穏やかであった。
茜色が包むどこか物悲しい空気の中、風に吹かれブランコが錆ついた音を響かせ、空しく前後に揺れている。
「なあ」
ジャングルジムの一番上に、夕陽を前から浴びる形で俯き、座り込んでいた右宮(みぎのみや)タスクが口を静かに口を開いた。全身黒い高校の学生服は今は茜色に染まり、顔だけが陰り暗い。
「なに?」
タスクのちょうど真後ろにあたるところの、タスクよりもさらに二段ほど下で足をぷらぷらさせていたタスクと同じ高校の制服を着た女生徒が、タスクにつまらなそうな声でそう答えた。赤い紐で髪を後ろで一本にまとめている佐藤(さとう)ツバサは、気だるげな表情のまま軽く口を引き結んでいた。その視線は、地面に長く伸びて行く自分と後ろのタスクとジャングルジムの影をじっと見つめている。そんなツバサの影は、行くあてもなく、地面の宙を彷徨っていた。
「オレ、フラれちゃったよ」
「知ってる」
ツバサはそっけないともとれるほど簡潔に答える。しかし、それに気を悪くした様子もなくタスクは言葉を続ける。
「工藤さんさ、他に好きな奴がいるってさ」
「知ってた」
「お前、なのに告白しろってオレに焚きつけたのか」
「うん」
「ひどい奴だな」
「じゃあ、告白しなかったの?」
「いんや、遅かれ早かれコクってた」
「でしょ?」
「ああ」
二人の間を沈黙が流れて行く。夕陽に延ばされ、影がまた少しだけ伸びる。
「好きだったんだけどなー」
「うん」
「あーあ、フラれちゃったかー」
「うん」
「これからどうしよう?」
「知らないわよ」
「だよなー」
「うん」
タスクは小さくため息を吐く。俯かせていた顔を少し上げる。茜色に染まった公園は、風に揺れるブランコを除きとても静かだった。
「ツバサはさ」
「なに?」
「今日、高峰(たかみね)にコクってみた?」
「うん」
「どうだった?」
「ダメだった」
「そうか」
「今付き合っている彼女がいるから、って。それも知ってたけど」
「なのにコクったのかよ?」
「うん。なんか悔しかったから。このまま黙っておくのもさ。なんだか負けた気がして」
「完璧に負けてんじゃん」
「そうじゃなくて。自分に、ってことよ」
「フラれるってわかってたのにか?」
「うん」
「そうか」
寂寥の風が、そっと二人の背を流れて行った。辺りに人影どころか、すぐ横を車も自転車も通らない。寂びれた公園にいるのは二人だけだった。ジャングルジムと、その向かいの鉄棒。二台のブランコに小さな滑り台と小さな砂場。動かない大口を開けたカバと、首の短いキリンの置物。道の脇の山を少し切り崩して造られた小さなこの公園に二人。夕陽に照らされたジャングルジムに座る二人の影は、またその長さをそっと伸ばす。
「上手くいかないものだな」
「そうね」
「オレさ」
「うん」
物音一つしない茜色の空気の中、二人は視線を合わすことなく会話を紡いでいく。タスクはどこか遠くの空を眺め、ツバサは足元の影をそっと追いながら。
「工藤さんにさ、お前と付き合ってんじゃなかったのか、って聞かれちまったよ」
「そう」
「ただの幼なじみなのにな」
「そうね」
「迷惑な話だよな」
「まったくね」
どちらからともなく、二人して背を向けたままため息を吐く。影に視線を投げやりにやっていたツバサが、やはり気だるげに口を開く。
「わたしもよ」
「うん?」
「だからわたしも言われたのよ、高峰くんに」
「オレと付き合ってたんじゃなかったのか、って?」
「そうよ」
「なんだよそれ」
「本当よね」
二人して今度もどちらからともなく同時に、今までよりもさらに大きくため息を吐く。
「ほんと、迷惑な話よね」
「ほんと、迷惑な話だな」
それからまた二人して押し黙る。沈黙までもが茜色に染まり始める。
虚ろな目を、やはり投げやりに空へと向けていたタスクは、後ろも振り向かずまた口を開く。
「なあ、いっそオレら付き合わね?」
「面白そうね。いいじゃない? マンガとかでありがちな幼なじみ属性で」
やはりツバサも後ろを振り返らないまま、足元の地面を見つめながら気だるげに返した。
「お前はお節介っていうガラじゃねえけどな」
「わたしはク―デレなのよ」
「ツンデレじゃなくて?」
「そ、ク―デレ」
「オレ的にはむしろダルデレって感じだけど」
「やめてよ、そんなほとんどいない上に全然一般的じゃない属性なんて。わたしだってたまにはやる気ぐらい出すわよ」
「へぇ、いつ?」
「今日高峰くんに告白した」
「そう言えばそうだったな」
夕暮れ。茜色。黄昏。ブランコの揺れる音。伸びる影。
タスクとツバサ以外いない小さな公園は、どうしようもなく小さかった。他にはなにも必要にないぐらい虚ろで、空ろだった。緩やかに時間は流れ、影が少しずつ長く細くなっていく。
茜色の沈黙。
不意に、噴き出すように二人は同時に笑い始めた。
「無理ね」
「無理だな」
ツバサとタスクは再び同時にそう口を開く。
「全然あんたと付き合っているわたしの姿が想像できない」
「オレも。てか、今までとあんま変わんなそう」
「そもそもあんたに愛なんて持てない」
「ひどい奴だな」
「じゃあ、タスクはどうなのよ。わたしを本気で好きになれる?」
「超大好き」
「ありがとう。わたしも大好きよ」
「ウソくせー!」
「どっちがよ」
同時に腹を抱えて笑いだす。小さな公園の、動かない影たちの中で二つの影だけが震えるように動いていた。
「あーあ、笑った笑った」
不意にジャングルジムの頂上からタスクは飛び降りる。そのまま夕陽に向かって大きく伸びをひとつ。
「ほんと、どうしてこうも上手くいかないのかね」
「さあ? これが世の中なんじゃない?」
「かもな」
「つまんない世の中」
「だな」
タスクは背後をようやく振り返る。そこには、まるで申し合わせたかのように気だるげな表情をしたままのツバサがタスクを見つめていた。
「なんだよ」
「なによ」
「別に」
「あっそ」
それからタスクは、ジャングルジムの錆びた鉄棒をなぞるように手で触りながら回り始める。ジャングルジムの端まで来て、左へ方向転換。ゆっくりとツバサの座る方向へ歩を進めて行く。
ツバサはそんなタスクの様子を上から座ったまま眺めるようにして見つめていた。
「なにしてんの?」
「んー、なんとなく?」
「なにそれ」
「さあ?」
タスクはそっとジャングルジムから手を離し、ツバサのちょうど向かいにある鉄棒へと向かっていく。その背をぼうっとした表情でツバサがただ見送っていた。
子供用かと思われる、タスクの腰辺りの小さな鉄棒と、胸のあたりの大きな鉄棒。夕暮れに茜色に染め上げられたその背後には、細長い糸のような長い影が鉄棒の地面から続いていた。
「この鉄棒、まるで親子みたいだな」
ぽつりと誰ともなしにタスクは呟いた。聞こえたのか、背後からツバサの投げやりな声が上から降って来る。
「なに? 詩人にでもなったつもり?」
「いんや、なんとなくそう思っただけ」
「黄昏てんのね」
「かもな」
タスクは背後へ振り返り、夕陽を背にしたツバサを見上げる。鉄棒に背を預ける様にしてタスクは、両手で鉄棒を握り、少々前屈の状態でジャングルジムに腰かけ両足を空中でぷらぷらとさせているツバサを見上げる。夕陽を背にしたツバサにタスクは少し目を細める。気だるげな目のまま、ツバサはどこかつまらなそうな顔でタスクを眺めていた。
「そう言うお前もな」
「わたしは黄昏てなんかいないわよ。ただぼうっとしてるだけ」
「いつものように?」
「そ、いつものように」
ツバサはやはり気だるげな表情で、どこかつまらなそうに言いきる。しかし、その言葉に切れ味はまったくなく、ただ地面にぼとんと落ちてしまったような印象を受ける。
「そうか」
タスクは再び振り返り、鉄棒に向き合う。両の手でぎゅっと鉄棒を握りしめ、体を持ち上げる。
「ねえ、さっきからなにしてんの?」
「べっつにー」
上体を前に倒す。しかし、回るほどの勢いも、そもそもそのつもりもなかったので、宙ぶらりんな状態でタスクの体は停止する。
タスクの世界は反転していた。地面が自身の視界の上にあり、空が自身の遥か下にある。
タスクの視界の目の前には、やはり反転した夕陽を背にしたジャングルジムと、気だるげに座っているツバサの姿と、ジャングルジムとツバサの影が映っていた。
ツバサは突然鉄棒に物欲し状態になったタスクを、やはりぼんやりとした表情で見下ろしていた。タスクがちょうど下から、ツバサのスカートの中を覗きこめる位置にいるにも関わらず、ツバサはスカートを抑えることすらせず、そんなタスクを眺め続ける。
「ほぉっほぉっほぉっ。絶景ですなー」
「えっち」
ツバサはタスクを変わらない瞳で見やりながら、気だるげにぽつりと呟いた。
「あんたいくつよ」
「ん、今は91歳じゃが?」
「この老いぼれエロ爺」
「ほぉっほぉっほぉっ」
そんないつものやり取り。タスクは反転した世界を見つめながら、ツバサはそんなタスクを見やりながら繰り返す。
「どう? 逆さまの世界は」
ぽつりとタスクの頭上からツバサが声をかける。下からちょうどタスクがスカートの中を覗く格好となっているにも関わらず、ツバサは恥じらう表情もしなかった。それどころか、露ほども気にかけていないようでもある。
「つまらない世界は面白くなった?」
「いんや、変わんない。つまんないまんま」
「そ、つまらないわね」
視界は逆さまになったら逆転する。数字も上下逆さまにすれば逆転する。しかし、世界はなにも変わらない。
タスクは変わらず鉄棒にぶら下がり、ツバサも変わらずそんなタスクを見やる。
なにも変わらない。
「ねえ、いつまでそれやってるつもり?」
「いや、もうしばらくこの絶景を楽しもうかと」
「こうしたらもっとよく見える?」
「おお、いいねえ。いい角度いい角度」
「バカじゃないの?」
「そう言うお前はもっと恥じらいを持て」
「あんたに今更恥じらってどうするのよ。小学4年生まで同じ風呂に入ってたのに」
「昔の話だ。それにしても、お前もだいぶ女らしくなってきたよな。胸もだいぶ成長してきたみたいだし」
「そうね、Dはあるわ」
「デカイ方なのか?」
「さあ? どうなのかしらね」
「それに、足も良い具合にムチムチしてきたな」
「むしゃぶりつきたい?」
「最高だね」
「バカじゃないの?」
「オレもそう思う。あと、実を言うと影で全然なんも見えない」
「そ。それは残念ね」
「ああ、まったくだ。でも」
「でも?」
「見えなくてもそこに桃源郷があるのはわかる」
「バカじゃないの?」
「ああ、まったくだ」
そんないつもと変わらないやり取り。タスクはくるりと一回転して、元の地面へと戻る。
もう地面が視界の上にあることもないし、空が遥か下方にあるわけじゃない。
元の世界。
普通の世界。
普遍的な世界。
タスクとツバサが生きる世界。
大したことのないつまらない世界に、タスクはまた足を付ける。
「なあ、これからどうするよ」
タスクはまた夕暮れを背にしたツバサの方へ振り返り尋ねる。
ツバサは未だにぶらぶらと両足を空中に漂わせながらそれに答える。相変わらずその下は、ツバサの影が行き場もなくぷらぷらと漂っていた。
「どうする、ってなにを?」
「いや、色々」
「別にどうもしないわよ」
「そうか」
「ああ、でもそうね。こうして二人してめでたく失恋したことだし」
「もう盛大にな。で?」
「これから盛大にカラオケでも行かない? 失恋ソング大会」
「ああ、それはいい考えだな。でも、オレあんま失恋ソング知らねえんだよ」
「じゃあ、適当に好きな曲でも入れたら?」
「そうする。あっ、デュエットするか?」
「いい考えね。やりましょうか」
「じゃあ、行くか」
「そうね」
それを皮切りにツバサは地面へと降り立つ。合わせて、影もようやく地面へと確かに着地をした。
二人はそのまま荷物を置いてあるベンチへと並んで歩いて行く。そして、荷物を手に取り、いつものように肩を並べて歩き始める。
二人の頭上では、ようやく星の光が瞬き始めていた。