泡
泡になって、消えてしまいたい。
そんなことを考えるようになったのはいつからだろうか。直美は夜の海岸に佇み思う。
責めるかのように寄せては返す、漆黒のさざ波。濃度を徐々に高めて行く空を、ただひとつ穿つ満月が、真っ暗な海にただ一筋の道を作っている。まるで明るい未来に導いてくれているかのような、月の蒼い道標。直美はそっと辛い笑みを称える。暗い、真っ暗な自分には、まさに神のお導きとしか言いようがない。
もう、少しの先すら何も見えなかった。月の明るさばかりが際立ち、海は直美を呑みこまんと大口を開けている。早くこっちに来い。暗く、真っ暗な海に直美は告げられた気がした。
それでもいいと思った。もう何も見えない。この空のように、この海のように、もう直美には何もかも見えなかった。
浜辺に打ち寄せる波が、急かすようにやって来ては、もどかしそうに海へと帰って行く。
直美は傍らにいる、愛犬のぺロと視線を合わすためにしゃがみ込む。ぺロは吹きつける潮風に、寒そうに身ぶるいをしていた。
頭を撫でてやると、ぺロはくすぐったそうに喉を鳴らした。
思えば、直美の唯一心から気を許せるのはぺロだけだった。ぺロと過ごす、我が家だけがたった一つの憩いの場だった。
直美の周りには常に仮面と欺瞞で満ち溢れていた。誰もが誰もが詐欺師のように直美は思えてならなかった。そんな中で、心など到底開けたものではない。
ペロの首輪をそっと外し、頭をそっと撫でてやる。嬉しそうの喉を鳴らす様子が、堪らなく愛おしかった。
「どこへでも、好きに生きて」
直美はペロの耳元で囁いた。
「バイバイ」
そして立ち上がり、再び真っ暗な空と海に対峙する。
海面を垂らす蒼い月光は、未来への道標。寄せては返す昏いさざ波は、歓迎の演奏。
裸足になると、直美は一歩踏み出した。後ろからペロの声が聞こえてきたが、もう振り返りはしなかった。
身を引き裂くような冷たさが、足のつま先から始まり、くるぶし、膝、腰と這い上がってきた。
直美は思った。まるで身を清めているみたいだと。否、事実、身を清めているのだろう。これから泡となるために。蒼い月光を目印に、直美は真っ暗な海に沈み、そして生まれ変わろうとしていた。
そして直美は、念願の泡となった。
一度泡となってしまうと、ゆらゆらと海水を漂う様子が何とも心地よい事に気付かされた。久しぶりに心が安らかになっていく。それはやがて、浮遊感を孕んだ眠気へと変わり、優しさに包まれながら直美は眼を閉じた。
とても、とても眠い。何年ぶりかの、心地よい眠りの入り口だった。真っ暗な海水の揺りかごに包まれ、月光のほのかなライトを浴びながら目を瞑る。
ふと声が聞こえ、直美は眼を開けた。そこには、たくさんの直美の兄弟姉妹の泡たちがいた。彼らの周りだけが、ほの暗い海水の中で、月のスポットライトを浴びて輝いていた。
直美は心の底から感嘆のため息を漏らす。ここにいるみんなは、直美と同じ。本当の、心の底から分かり逢える仲間たちだ。
きょうだいたちは楽しそうにおしゃべりをしていた。笑い声や、はしゃぐ声。その輪に加わりたちと、直美は心の底から思った。
「あの、」
勇気を出して、近くの彼に声をかけてみた。緊張で、心臓が押しつぶされたようにドキドキする。ちゃんと受け入れてもらえるのだろうか。ぎゅっと、手を握り締める。
彼は笑って、直美を受け入れてくれた。それどころか、手を引いて仲間の輪に連れて行ってくれたのだ。それが、直美には堪らなく嬉しかった。
ここなら、仮面も欺瞞もない。素のままの自分でいられる。直美は、心の底から喜んだ。
そして、それはあまりに幸せな時間だった。信頼できる仲間との対話、触れ合う時間は何にも勝る。直美は何年かぶりに、本気で声を出して笑い、はしゃぎ、時にはふざけて怒ったふりさえしてみた。本当に充実した時間だった。直美は、これが永遠に続けばいいのにと、心の奥底から強く願った。
「あっ」
不意に、直美の目の前の彼、直美が最初に声をかけた彼の泡は弾け、跡形もなく消え去ってしまった。
それはあまりに突然の出来事だった。仲間の皆も驚きを隠せないでいるようだ。
そして、またひとつ、またひとつと仲間の泡は弾け、跡形もなく消え去っていった。
直美は、仲間の泡たちが次々に消えていく様を見つめながら、次は自分なのではないかと恐怖した。
またひとつ、今度は直美の隣にいた彼女の泡が消え去ってしまった。
直美は悲鳴を上げ、飛び退る。
一体どうしてしまったのだろうか。直美にはもう何も分からなくて、ただただ悲鳴を上げるしかなかった。
ついに直美ひとりを残して、他の泡たちは皆消えてしまった。
その時、直美は初めて自分が真っ暗な海水の中にいることを知った。月のスポットは、完全に消えていた。
幸せな時間は、唐突に、泡のように消え去ってしまったのだ。
直美は絶望に押しつぶされ、泣いた。泣いてもどうしようもない事に気付きながらも、ただただ泣くしかなかった。
ひとり残された自分も、やがて弾けて消えてしまうのだろう。泡となった私は、消えてしまう。
その時、遠くからペロの鳴き声が聞こえてきた。続いてばしゃばしゃという水の音。ペロが自分を呼んでいるのだと、すぐに分かった。
けれども、もうどうしようもなかった。
直美は泡となり、そして消えてしまうのだ。ペロと過ごした我が家での憩い時間も何もかも、先ほどまで泡の彼らと過ごした楽しい時間同様、まるで泡のように。
わんわん、という悲痛なペロの鳴き声。ひとり残された悲しみを叫んでいるようだった。
心の底から後悔した。
けれども、もうどうしようもない。
直美は泡となり、消える。
最後に呟くように、そして叫ぶように直美は何かを言った。
それはペロに対する謝罪だったのか、後悔の懺悔だったのか。
それを最後に直美の泡は、海の中で弾け、消えてしまった。
後には何も残らなかった。